アサ日記

土佐日記のパクリ

10/22

友人からもらった本を読んでいる。
ほしい物リストに入れていた本を送ってもらったので、せっかくだから思考ごと記録に残そうと思った。

中動態という能動態・受動態の中間にある態について言及している本で、なかなか感覚として掴みやすくてよい本だと思う。
平易なことばを意図的に選んでいるようで、かなり読みやすい。

 

人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものとして見なしてもよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。
意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせていい、と判断された瞬間に、意志の概念が突如発生する。

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』2017年、医学書

 

序盤のこのテクストを目にした瞬間、トロッコ問題だなあと思った。
生物学者マーク・D・ハウザーの指摘するトロッコ問題のダブルエフェクトみたいだ。

人間はどういう事柄を能動的だと「捉える」か、という話で、実際にそれが能動であるか受動であるかということを絶対値では判断しているわけでなく、「そうらしさ」で値をつけているという話である。

それの言語化だな〜と思ってよかった。し、逆に「私はそう見えているから責任を負わされるのだな」と思った。

多分この、「責任あるものとして見なしてもよい」と判断されているのだ。
だから、全ての物事において様々な角度から見て「責任あるものとして見なしてもよい」と判断する人が多ければ多いほど強い要求やその他責任転嫁が発生しやすい土壌にあり、そういう環境であるからして人は私に責任を求め、私は受動的に生きているが故に責任を勝手に背負う。

……という構造で多分、自分が他者から責任を求められるのだろうということがわかった。

受動的に自分が生きることをやめられないのなら、この構造を理解した上で構造的に対応策をとることはできるなと思った。

「責任あるものとしてみなしてもよ」くないものであると周囲から受け止められればよいのではないか。

……となると、うーむ。既に診断書を叩きつけ、産業医からも「PTSDかもです……」と言われた以上、もはや誰も私に責任を求めることはできないのではないか。

責任を求めすぎた結果、昨夏から320時間以上の労働を一人で押し付けられ、昨夏にも診断書を出したのにそれを握りつぶし、その上で今回完全に就労が不可能ですと診断された人間に対して責任を求めることができる人はこの世にいるのだろうか。

いなくない?

結局、休んでなかったから「休ませなくてもいい」「やりたくてやっている」と思われていたんだろうが今回休職したことによってそれが幻想であると明らかになったからきっと誰も私に前みたいな働き方を要求できなくなるのだろう。

一回休んだらなにもかもが解決してしまった。
必要だったのは、労務への駆け込み訴えだったのかもしれない。

 

テクストの第一章は「中動態こそが能動態と比されるもの」として論が展開してゆく。

スピノザを中心とした意志論が続くおかげでかなり私にとっては読みやすいが、そもそもスピノザ的な視座自体に馴染みがなかったらかなり読みにくかったろう。
そういう意味では、「こういうジャンルが好きな人」に向けた本で、「読むのが向いている人と読むのが向いていない人」が大きく分かれるなあと感じた。

私は自我が薄い(能動的に何かをしようとしているとは自分の行いに対して思っていない)からこそ、あくまで手元にあるのは事実がそこにあるだけ、という基本的な考え方になる。

 

「私が何事かをなす=I do something」の分析を通して世界を捉え直す、という試み自体が好ましいのは大前提として、思考の先にあるもの(言語は思考に先立つとか、そういう話の類型として)についてはいつも考えている。

私はなぜこう生きているのか、こう生かされているのか、みたいなことに対しての答えをいまだに持ち合わせていない。
どうして自分がそう思っているのか、自分がそう思わされているのかということに、なんとなく考えないようにした上で事実ベースの物事だけを手に入れて生きてきたせいで、パッシブな自分の自我に自信がない。

自我らしきもの、があるとされているが、自分でその自我らしきものの形を掴めないから他人を使って他人と交流することで(あるいは、キャラクターとの対比として)自分の形を相対的に捉えなおす試みを常に行なっている、が故に、この本を読み進めるのにある種の指針が持てる。

“自分の在り方(=態)を捉え直し、自分の能動的な意識を切り取ることによって自分がより生きやすい、自分が楽な状態を掴み、それを他者に伝えることでよりよく生きる”が一旦の目標であるといえるだろう。

 

エネルゲイアは何ごとかを「遂行すること performance 」、パトスは何ごとかを「経験すること experience」と解されねばならないとアンダーセンは言う。

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』2017年、医学書

これめっちゃわかっちゃう!! と思った。
思ったし、自分が本当にギリシャ哲学でつくられたギリシャ哲学人間なんだ……と思った。自分はエネルゲイアで動く人間ではないし、パトスで動く人間である。

結果として経験が積み重なり、それを使って遂行することはできるがそもそも大前提として中動態的な生き方、ということになるのだろう。

 

「しゃべっている言葉が違うのよね」
ある依存症当事者がふと漏らした言葉から、
「する」と「される」の外側の世界への旅がはじまった。

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』2017年、医学書

「依存症当事者」の持つ世界の捉え方と自分の世界の捉え方は多分近いのだろう。
ワーカホリックにしろ、強迫性障害にせよ、そういう「事実ベースの実態」に即したことばの使い方という点では類似のものであるといえる。おそらくは、だが。

「自分がしようと思っていないけどそうさせられてしまう」という意味では、「飲んではいけないとは思っているがアルコールを摂取してしまう」のと構造としては近い。

そういう、「自分の意志で自分を操縦することができない人たち」にとってはおそらく中動態という態自体が馴染みのあるものであるとか、そういう話なのだろうと思う。

きっと「自分の意志で自分を操縦する」ことが当たり前の人からすれば、そもそもこれ自体何を言ってるかもわかっていないんだろうと思うし、それが「しゃべっている言葉が違う」の正体なのだろうと思うしこの先に答えがあるのかもしれない。

それを説明するのも難しいし、この「ああ〜それそれ!」感が他の人に伝わるのかどうかもわからない。

自分の意志で自分のことを動かすことが難しい、という人たちに名前がついているのだろうか。私はあまり覚えがない、けれど、そういう人たちは必ず存在している。

いないことにはならないし、ここにいるぞ、と思う。

だからこそ、そういう「自分の意志で自分を動かせない」人にかなり読んでほしい本だなあと思った。本当に……。